明日の会議に出たくない。朝礼で何を言おうか。夕方の社員のチェックが面倒だ。 ああ、かなり面倒だ。それらのたくさんのタスクに対して準備が何も出来ていないから、明日になったらそんな自分を社長がケナしてくるだろう。ああ、明日になるのが恐怖だ・・・。そんな毎日が私の恐怖であり、毎日の憂鬱なのだ。そう、この恐怖の魔王が到来するのは誰のせいなのか?

 前述のように全ては「自分が感じている」ことなのだ。単純に自分が感じなければ恐怖は無いも同然だ。恐怖の魔王のイメージを自分が創っているだけなのだ。こうやって文章にしてみると分かってきた。人間は未知のことに不安になるものだ。知らないことを知り尽くすにはどれだけの時間がかかるか分からないし、どんなリスクが待っているかも分からない。そんな小さな要素が時間の経過とともに雪だるま式に勝手に大きくなっていくのだ。 逆に知っていることや習慣づいている事には不安にならないものだ。

しかし、よく考えてみよ。 誰もが1時間後、または明日、さらには一年後、と自分に何が起こるかなんて知る由もない。そんな不安を全員が持っているわけだが、皆はそれに準備することで対処しているのだ。そんな万人が実施している作業から逃げている自分は人生の転落者、堕落者、さもなくば競争社会の敗者になっていることにやっと気づくわけだ。

要は、危険に気づいた後にもアクションしない自分は、ただ死に向かって進んでいるかもしれないという不安が最大の恐怖なのだ。その何も講じない自分の愚かさや無能さに恐怖している。人間は寿命というものを元に逆算して生きている。だからその人生の終わりを意識しながら生活している。それに対して、動物は自分がいつ死ぬか考えたことは無い。故にその準備なんてしたこともないはずだ。まさに、その動物や昆虫と同じなのだ。 ただ、空腹になれば食べたいと感じ、眠くなれば寝るというだけ。それを満たすための行動の繰り返しだけで生きているだけで、不安や恐怖というものを感じたり、楽しくないのは誰かのせいだと恨んだりもしないだろう。


恐怖とは、対策が無い不安から感じるもの。
安心とは、不安の対策があるときに感じるもの。 
ただ、そもそも不幸に気づいてなければ不安さえも感じないもの。

予測と対策が人の生きる道である。
人間は考える葦である。